祇園祭の山鉾

  • リンクボタン長刀鉾(なぎなたほこ)

    嘉吉元年(1441)頃の創建とも、それ以前とも言われており、鉾頭に大長刀を付けるのでこの名で呼ばれています。謡曲「小鍛冶」で有名な三条小鍛冶宗近作の長刀を当初は用いていましたが、天保の頃より真刀では危ないことから、現在は宝物として保存し、代替の長刀を立てています。この鉾は古来から「くじとらず」で毎年巡行の先頭にたち、生稚児が二人の禿と共に乗るのも今では長刀鉾だけです。真木の「天王座」には和泉小次郎親衡の衣装着の人形を祀っている。

  • リンクボタン郭巨山(かっきょやま)

    中国の史話二十四孝の一人である郭巨釜掘りの故事に因んで造られており、別名「釜掘り山」とも呼ばれています。郭巨が母に孝養を尽くすため「子は再び得べし、母は複得べからず」とわが子を山へ棄てようとしたところ、土中から一釜の金を得ました。一礼あって「天孝子郭巨に賜う、官も奪うを得ず、人も取るを得ず」と記されていたという話を山の趣向にしたものです。山を飾る御神体の郭巨と童子は寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭の作と言われています。この山に限って屋根覆いをかけています。

  • リンクボタン油天神山(あぶらてんじんやま)

    古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請してつくられた山で、油小路通にあるところから「油天神山」、また勧請の日が丑の日であったところから「牛天神山」とも呼ばれています。山は正面に朱塗明神鳥居をたて「天神山」の額がかけられ、社殿にはもと風早家に伝来し後に町内の祠に祀っていた天神像を安置します。真木の松の他に紅梅の枝を立て鈴をつけています。

  • リンクボタン保昌山(ほうしょうやま)

    応仁の乱以前に起源をもつこの山は、明治初年まで「花盗人山」と呼ばれ、源頼光四天王の一人平井保昌が宮中の女官に恋をし、女官の紫宸殿南殿の梅を手折ってほしいとの願いで、夜中に宮中に忍び込み、梅の枝を手折った。この女官は後に保昌の妻になった和泉式部であったという話から趣向された山で、世阿弥作と伝えられる謡曲「花盗人」(番外)から取材したものと窺われています。平井保昌は丹後守で、謡曲では梅でなく桜となっています。御神体の人形は緋縅の鎧に太刀をつけ、梨地蒔絵の台に紅梅を一杯にもってこれを捧げています。

  • リンクボタン函谷鉾(かんこほこ)

    中国の古い関所、函谷関に因んだ名で正しくは「かんこくほこ」ですが、一般には「かんこほこ」と呼ばれています。中国の戦国時代(前403~221)斉の孟嘗君が秦の国を逃れて函谷関に着いた時、家来に鶏の鳴き声をまねさせたところ関門が開き難を逃れたという故事にちなみます。鉾頭の三日月と山型とは山中の闇を表し、真木の「天王座」には孟嘗君、その下に雌雄の鶏をそえています。この鉾は天明8年、天明の大火(1788)に焼失し、50年後の天保10年(1839)に復興され、鉾では始めて稚児人形が作られ一条忠香卿により「嘉多丸」と命名され、それ以後稚児人形を用いています。

  • リンクボタン山伏山(やまぶしやま)

    山に飾る御神体が山伏の姿をしていることから山の名が呼ばれています。昔東山法観寺八坂の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿を表しています。左手に刺高の数珠、右手には斧を持ち腰には法螺貝をつけている。巡行の数日前より聖護院の山伏の巡拝があり、八坂神社からの清祓とともに六角堂から法印の祈祷も行なわれ、神前に供える三宝も仏式の黒塗のものが用いられます。明治初年の神仏分離以前の姿をこの山にみることができます。

  • リンクボタン四条傘鉾(しじょうかさほこ)

    応仁の乱以前に起源をもつ古い鉾の姿を伝えており、織物の垂れをつけた傘と棒ふり囃子が巡行する形態の傘鉾の一つで、傘の上に赤御幣と花瓶に若松を飾っています。明治4年の巡行を最後に姿を消していましたが昭和60年に傘鉾本体が再興になり、昭和63年に巡行に欠かせない踊りと囃子が復元され、巡行に参加するようになりました。踊りと囃子は、室町時代に京に流行った風流踊で、滋賀県の滝樹神社に伝わる「ケンケト踊り」を参考に復元されたものです。

  • リンクボタン占出山(うらでやま)

    神功皇后が三韓征伐に際し、肥前国松浦郡玉島川で鮎を釣って戦勝の兆としたという「日本書紀」の説話を趣向にした山で、「鮎釣山」とも呼ばれます。神功皇后の御神体は顔に面を付け黒髪を長く垂れ、金の烏帽子を冠り、衣装は小袖に長絹を重ね、太刀をはき、右手に釣竿を持ち、左手には釣り上げた40センチ程の鮎を持ち立っています。真松にこの山だけが黒松を用います。神功皇后が安産の神として祀られ、山鉾巡行のくじ順が早いとその年はお産が軽い言われます。

  • リンクボタン鶏鉾(にわとりほこ)

    中国古代、堯の時代に世の中がよく治まって太平が続き、訴訟用の太鼓(諌鼓)に用がなくなり苔が生え鶏が宿ったという故事に因んだ鉾です。真木の「天王座」は船形で、海上航海の守護神である住吉明神を祀っています。見送りは16世紀頃ベルギーのブリュッセルで制作され、アキレスと一騎打をするトロイの王子ヘクトルが妻子に別れを告げる図で、江戸時代初期に輸入されたものと考えられ、国の重要文化財に指定されています。

  • リンクボタン白楽天山(はくらくてんやま)

    唐の詩人白楽天と道林禅師との問答場面を表しています。白楽天は唐織金地小袖に祇園紋を織出した白地狩衣を着け、浅黄八ッ藤柄の袴をはき、唐冠をかぶり手に笏を持って道林禅師を恭敬する姿勢で立ち、一方道林禅師は白綸子小袖に緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり金欄の袈裟をかけて、右手に手巾、左手に数珠をかけ払子を持って松の枝の上に座しています。山の説話に因んで真松は山の中で一番高くなっています。

  • リンクボタン木賊山(とくさやま)

    世阿弥の創作といわれる謡曲「木賊」から取材した山で、我が子を人にさらわれて一人信濃国園原の里で木賊を刈る老翁を表しています。御神体の人形は腰に蓑をつけ、左手に木賊を、右手には鎌を持っています。

  • リンクボタン伯牙山(はくがやま)

    もとは「琴破山(ことわりやま)」と呼ばれていましたが、明治4年に改名しました。中国周時代、琴の名手伯牙は親友の鐘子期が死んだとき、自分の琴を真に聞いてくれる人がいなくなったと嘆き、琴の弦を断ったという説(呂氏春秋)と、晋時代に戴安道という琴の名手が武陵王の招きを受けた時、一介の楽人として招かれるのを潔しとせずに、琴を割った故事によるという説(晋記)があり、このことから「琴破山」とも言われます。御神体の人形は手に斧を持ち、琴を今にも打ち破ろうと見下しています。

  • リンクボタン月鉾(つきほこ)

    鉾頭に新月型(みかづき)をつけているのでこの名で呼ばれます。真木の「天王座」には月読尊を祀る像は右手に櫂を持ち、月を仰ぐ姿で舟に乗っています。稚児人形の「於兎丸」は、現代的な容貌で明治45年五代目伊東久重作で、前年までは生稚児が乗っていました。

  • リンクボタン芦刈山(あしかりやま)

    平安時代の「大和物語」を原典とする謡曲「芦刈」より趣向された山で、貧乏のため夫婦別れをした妻が都へ出て乳母になり、やがて裕福になったが、別れた夫を思い出して難波へ行ってみると、夫はしがない芦売りをしていたという話です。御神体は老翁の姿で能衣装に水衣をはおり、懐に中啓、右手に鎌を左手に芦を一本持ち、芦原に立つ姿を表しています。御神体の衣装は、山鉾最古の衣装です。

  • リンクボタン綾傘鉾(あやかさほこ)

    山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、綾傘鉾本来は鶏の作り物をつけた傘と棒を持った鬼形の踊り手を中心とする棒振り囃子の行列として巡行していました。この綾傘鉾も天保5年(1834)に屋根の上に傘をさした鉾に改造されましたが、元治元年(1864)の大火で焼失しました。その後、明治12年から17年まで徒歩囃子の形で山鉾巡行に参加したことがあります。棒振り囃子は、赤熊をかぶり、棒を持った者が、鉦・太鼓・笛に合わせて踊るもので、江戸中期には壬生村の人々により奉仕されていました。昭和54年に復興し巡行するようになりました。

  • リンクボタン孟宗山(もうそうやま)

    中国の史話二十四孝の一人で、病身の母を養う孟宗が、雪の竹薮から筍を掘り出して母に与えて喜ばせた話を取材とした山です。「筍山」「笋山」とも呼ばれています。御神体の人形は七条大仏師康朝左京の作といわれ、唐人衣装に笠をつけ、右手に雪のかぶった筍、左手には鍬を肩にかついで立っています。

  • リンクボタン菊水鉾(きくすいほこ)

    町内に古くからある井戸の菊水井にちなんで名付けられており、鉾頭には金色の菊花をつけています。真木の「天王座」には彭祖像を祀っています。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという謡曲(金剛流)の「枕慈童」(観世流では菊慈童)で能装束の舞姿です。現在の鉾は、元治元年(1864)禁門の変による大火で焼失し、88年ぶりの昭和27年に再興され昭和28年より巡行に参加すようになりました。この鉾は唐破風造りの屋根で軒下に翠廉を掲げるところは他の鉾と特に異なっている。

  • リンクボタン太子山(たいしやま)

    聖徳太子を祀る山で、聖徳太子が四天王寺建立にあたり、自ら山中に入り用材を求められたという所伝にもとづき、他の山がいずれも松を立てているのに、この山のみが真木に杉の木を立てて、その樹に聖徳太子が淡路の海岸に漂着していたのを拾われたという如意輪観音像を奉戴している。聖徳太子像は少年像で右手に斧、左手に衵扇を持っています。宵山には聖徳太子に因んで知恵をさずかるという「杉守り」「知恵のお守り」を授かることができます。

  • リンクボタン蟷螂山(とうろうやま)

    応仁の乱以前に起源をもつ山で「蟷螂の斧を以て隆車の隊を禦がんと欲す」という中国の故事にたなんだ山で「かまきり山」とも言われています。南北時代足利義詮と戦って死んだ当町在住の四条隆資卿の武勇ぶりが蟷螂の生態に似ていることから、渡来人で当町居住の陳大年が彼の死後25年目の永和2年(1376)四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まりと言われます。その後、再三の戦火で安政4年(1857)を最後に巡行しなくなりましたが、昭和56年に再興されました。

  • リンクボタン霰天神山(あられてんじんやま)

    「錦天神山」「火除天神山」とも呼ばれる山で、永正年間(1504~1520)京に大火があったが、その時霰が降り大火が消え、その時に一寸二分の天神像が降ってきたのを祀ったのが山の起こりだと言われます。欄縁上に朱塗り極彩色で精巧な透塀の廻廊をめぐらして山上を境内に見立てて、中央に桧皮葺唐破風春日造の社殿を安置し、社殿の周囲に真松の代わりに若松12本を並べ、前方鳥居内に榊一対と紅梅一対を建てています。祀られてある天神像は由緒通り4センチばかりの衣冠姿の座像である。

  • リンクボタン放下鉾(ほうかほこ)

    鉾の名の由来は、真木の「天王座」に放下僧の像を祀ることによります。鉾頭は日・月・星の3つの光が下界を照らす形に並んでいるのがお菓子の洲浜に似ていることから別名「すはま鉾」とも呼ばれます。この鉾も昭和3年迄生稚児でしたが、今は稚児人形に変わっています。稚児人形は久迩宮嘉王殿下より「三光丸」と命名され、巡行中にも生稚児と同様に鉾上で稚児舞ができるよう操りを採用しています。

  • リンクボタン岩戸山(いわとやま)

    日本神話の天岩戸開きから取材している山です。山とはいえ鉾と同じ車をつけた曳山で、室町時代狩野永徳の洛中洛外図屏風で見られる岩戸山にはすでに車輪が描かれていました。もと山であった名残に真木のかわりに屋上に松を立てています。内部に天照大神・手力雄命の御神体を祀っていて、さらに棟上に天瓊矛を突き出した伊弉諾尊の御神体を安置しています。

  • リンクボタン船鉾(ふねほこ)

    船鉾は応仁の乱以前から2基あり、この船鉾は出陣の船鉾で先の祭の殿りをつとめ、他は凱旋の船鉾で後祭を固めていました。鉾というものの真木がなく、神功皇后の外征の説話の状をうつし、神功皇后と陪従する住吉明神・鹿島明神、それに水先案内をつとめる龍神安曇磯良が満珠千珠を捧げて、舳に立つ四神像の人形を乗せています。神功皇后の神面は古来安産に奇瑞があるといわれ、宮中でも尊敬され、明治天皇御降誕の時に宮中へ参内しています。

  • リンクボタン北観音山(きたかんのんやま)

    「上り観音山」とも呼ばれ、現在は後の祭の山鉾巡行の先頭をいく曳山です。御神体の観音像は楊柳観音座像と合掌して金剛杵を捧げている韋駄天立像を祀っています。文和2年(1353)創建の曳山で、現状のように飾屋根付きになったのは天保4年(1833)のことです。また、真柱の真松は赤松で、松の左二の枝に鳩をとまらせています。山鉾巡行の時には見送の横から楊柳観音の象徴として後方に大きな柳の枝をさし出しています。

  • リンクボタン橋弁慶山(はしべんけいやま)

    謡曲「橋弁慶」から趣向の山で、五条の大橋で弁慶と牛若丸が戦う姿を表しています。また、狂言「鬮罪人」にも「橋弁慶」という構想のもとに巡行した山として説明されており、弁慶は鎧姿に太刀を斜にかまえ、一方の牛若丸は欄干の擬宝珠の尖端に高足駄の歯先で立ち片足を曲げ、右手に太刀を持っています。この山には山篭も真松もなく、山の上を舞台として風流の趣向を見せていた時代の形式を伝えています。この山は古来から「くじとらず」で後祭の先頭を巡行していましたが、明治5年以降は「くじとらず」で北観音山の次の二番目に巡行することになっています。

  • リンクボタン鈴鹿山(すずかやま)

    伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現「瀬織津姫尊」の話を趣向した山です。御神体の瀬織津姫尊は金の烏帽子をかぶり能面を付け、腰に錺太刀、左手に長刀を立てて持ち、右手に中啓を持っています。真松には鳥居・松・木立と宝珠を描いた絵馬がつけられ、山洞には悪鬼の首の象徴として赤熊のかしらが置かれ、山中を表現して桧数本を立てています。

  • リンクボタン八幡山(はちまんやま)

    町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請した山で、正面の朱塗の明神鳥居には八幡さんの使いといわれる鳩2羽が向い合って笠木上両側にとまり、社殿は天明年間の制作といわれる高さ1メートルの総金箔の美麗なものです。八幡宮は普段は町会所の庭に祀られていますが、山上の社殿は蔵に保存されており、巡行日のみ山上に飾られます。

  • リンクボタン鯉山(こいやま)

    龍門の滝を登った鯉は龍になるという中国の伝説を基にした立身出世の金言「登龍門」を表している山で、応仁の乱前の分には「れうもんの滝山」として挙げられています。前方に朱塗鳥居を建て山の奥の朱塗の小社殿には素戔嗚尊が祀られ、その脇からさがる白麻緒は滝の感じをあらわし、欄縁その他の金具はすべて波涛文に統一されています。山全体を飾る前懸、胴懸(二枚)、水引(二枚)、見送は十六世紀ベルギーのブリュッセルで制作された一枚のタペストリーを裁断して用いたもので、重要文化財に指定されています。

  • リンクボタン浄妙山(じょうみょうやま)

    平家物語の宇治川の合戦から取材したもので、治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺の僧兵筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようと奮戦していると、後から一来法師がその頭上を飛び越え「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったといいます。山の御神体二体は、その瞬間を表現したものであり、黒漆塗の橋桁にも数本の矢がささり合戦の最中であることを示しています。かつては「悪しゅう候山」とも呼ばれ、胴懸のビロード織に由来して「ビロード山」の異名でも呼ばれていました。また、大正頃までは「常明山」・「浄明山」とも書かれていました。

  • リンクボタン役行者山(えんのぎょうじゃやま)

    山の御神体として役行者を中心に、一言主神と葛城神の三体を祀っています。この組合せは役行者が大峰と葛城の二山の間に石橋をかけることを鬼たちに命じたところ、一言主神が言うことをきかないので谷へ呪縛したという伝説がこの山の趣向です。正面の洞に役行者が帽子・掛絡・経巻・錫杖を持って座していて、葛城神は 女神で手に台つきの輪宝を持って山の向って右側に立ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり手に斧を持って左側に立っています。

  • リンクボタン黒主山(くろぬしやま)

    六歌仙の一人、大伴黒主が桜花を仰ぎ眺める姿を表し、謡曲「志賀」にちなむものといわれます。古今和歌集の序に紀貫之が「大伴黒主はそのさまいやし、いはばたき木おへる山人の花のかげにやすめるがごとし」と記しているのを構想の根拠としたという説もあります。御神体は白髪・白髯の豊かな老人で、自然木の杖をついて伸びあがるようにして桜の花を見上げている姿を表しています。昔の山は雰囲気を盛り上げるため真松の山篭の他に添山を飾る場合がありましたが、黒主山にはそれが残っていて、桜の木が立てられています。

  • リンクボタン南観音山(みなみかんのんやま)

    「下り観音山」とも呼ばれ、後の祭の山鉾巡行の殿(しんがり)を務める曳山です。御神体の観音像は北観音山と同じく楊柳観音座像と善財童子で、華厳経の説話で文殊菩薩の教えを受け、南へ南へ53人の聖者を訪ねて菩薩道修業をした話は、東海道五十三次や、指南の語源になりますが、28番目の観音はあらゆる苦悩から人々を救うことを教えたといいます。真柱の真松の横枝には尾長鳥をとまらせています。諸病を防ぐといわれ山鉾巡行には柳の大枝を差し山の四隅には菊竹梅蘭の木彫りの薬玉をつけます。南観音山独自の行事として、宵山の深夜に楊柳観音像を台座に縛り付け舁ぎまわる「あばれ観音」があります。

  • リンクボタン大船鉾(おおふねほこ)

    「凱旋の船」とも呼ばれ、後祭の巡行の最後を飾る鉾でしたが、元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失ししてしまいました。幸いにもご神体人形(神功皇后)1体や舳を飾る大金幣、織物・刺繍の技術を使った大舵や水引・前懸・後懸等の懸装品が焼失を免れ「居祭」として宵山飾りを続けてきました。2012年から唐櫃(からびつ)で巡行に復帰。2014年からは150年ぶりに大船鉾として復活しました。

  • リンクボタン布袋山(ほていやま)焼山(休山鉾)

    記録には江戸中期の宝暦より巡行に不参加で、天明8年(1788)に布袋尊と二童子を残して焼失したとあります。布袋和尚は唐の禅僧で、弥勒の化身ともいわれ、日本では江戸時代に七福神の一人となった唯一実在の人で常に童子2人を従えている。現在像高25センチ位の布袋尊と二童子を宵山に限り祀っています。

  • リンクボタン鷹山(たかやま)焼山(休山鉾)

    応仁の乱以前より「鷹つかい山」などの名で文献にあります。後の祭で最後の大船鉾の前を進んでいた囃子を伴う大きな曳山でした。文政9年(1826)大夕立に逢い人形・懸装織物類の汚損が著しく、その後休山していたところ、元治元年(1864)の大火でほとんどの物を焼失しました。御神体は源頼朝とも在原行平ともいわれる鷹匠と犬飼いとが立ち、後方に樽を背負った従者が座り込んで粽を大事そうに持った三体の人形が中心です。現在復元された人形が宵山に飾り付けられます。「樽負山」「太郎山」とも呼ばれていました。

※参考資料 (財)山鉾連合会・八坂神社

川見善孝Photographer

京都の写真家 川見善孝「keiz cube」です。
1年をとおして、ライフワークである「祇園祭」を紹介しています。